HOME > 穗髙神社を知る
穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そして奥宮は穂高連峰の麓の上高地に祀られており、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られています。穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式神名帳には名神大社に列せられ古くより信濃における大社として朝廷の崇敬篤く、殖産興業の神と崇められ信濃の国の開発に大功を立てたと伝えられています。
また当社は三殿あるご本殿一殿を二十年毎造り替える式年遷宮祭を五百年以上前より齋行しております。
古くより日本アルプスの総鎮守、交通安全、産業安全の守り神として広く信仰され、近年では初宮詣、厄除、八方除など個人の幸せを祈る人があとを絶ちません。
穗髙神社の永い歴史と伝統の中で、最も重要で最大の祭りが20年ごとに御本殿を造り替える式年大遷宮祭と20年の間に2度行う小遷宮祭である。当神社に伝わる「三宮穂高社御造宮定日記」にある文明15年(1483年)の記述が最古の造営記録とされており、実際はそれよりもかなり古くから行われていると考察され、現在も古式のままに本殿を造り替えている。
遷宮祭は、安曇人が守り伝え神々に真心を捧げて、厳粛の中にも華やかさが融合した安曇野が誇りとするお祭りである。(市無形民俗文化財指定)
式年 | 一定の期間ごとに行う。 |
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遷宮 | 新しい清らかなところ(宮)に御神体(御霊)をお遷しする事。当神社には大遷宮祭と小遷宮祭がある。 |
大遷宮祭 | 20年に一度、本殿一殿を造り替えて新しく清らかな本殿に御神体をお遷しする遷宮を大遷宮祭という。 |
小遷宮祭 | (御破損)大遷宮祭の20年の間に2度(7年目、6年目)本殿を修理・清浄にして御神体をお遷しする遷宮を小遷宮祭という。 |
四至榊立神事 | 本殿遷座祭の百日前、穗髙神社周囲東西南北の一里四方の各所に榊を立て注連縄を張り、一日かけてこの四至内が清浄な神領地として生まれ変わるように祓い清めて歩く。 |
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仮殿遷座祭 | 仮の御殿に御神体をお遷しする。 |
清祓 | 本殿遷座祭の前日、本殿の内外を祓い清める。 |
本殿遷座祭 | 五月寅の日寅の刻(午前3時)浄闇の中、仮殿に奉安されている御神体を絹垣で囲まれた御羽車に奉載し本殿へお遷りを仰ぐ遷御の儀が厳かに執り行われる。 |
奉幣祭 | 遷座祭の翌日、天皇陛下より賜った幣帛を御神前に奉る。 |
奉祝祭 | 遷宮祭に際して御寄進をして頂いた方々の報告と祈願祭。 |
嶺宮登拝 | 遷宮祭の翌年、遷宮が無事斎行されたことを奥穂高岳に登り嶺宮に報告する。 |
※はクリックすると詳細をご覧いただけます。
1月 | 元旦(1日) | ※新春一番祈祷・歳旦祭、聖寿万歳、氏子・崇敬者安全祈願 |
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1日~8日 | 聖寿万歳・天下泰平祈願祭・※新春祈願交通安全祈願大祭 | |
9日・10日 11日・15日 16日・17日 |
※厄除・八方除特別祈祷祭 | |
2月 | 3日 | ※節分祭 竈神祭 |
3月 | 17日 | 祈年祭、※奉射祭(特別神事) (農・工・商、産業振興祈願) |
最終日曜 | ※勧学祭 | |
4月 | 17日 | ※厳島社例祭 宵祭 |
18日 | ※厳島社例祭 本祭・道祖神祭 | |
19日 | ※穂高霊社例祭 宵祭 | |
20日 | ※穂高霊社例祭 本祭(平和祈願祭) | |
27日 | ※上高地開山祭 | |
5月 | 2日 | ※わさび御料圃祭(靖国神社神職奉仕) |
6月 | 30日 | ※大祓式(悪事災難除け祈願) |
8月 | 2日 | 祖霊祭(神道家の慰霊祭) (先祖の偉業をたたえ、子孫繁栄祈願) |
15日 | ※穂高霊社みたままつり(三ヶ日手筒花火奉納) | |
9月 | 10日前の土日 | ※子供祭 |
26日 | ※本宮例祭宵祭 | |
27日 | ※本宮例祭本祭(御船祭)県無形民俗文化財指定 | |
28日 | ※翌日祭 | |
10月 | 7日 | 山岳遭難者慰霊祭 |
8日 | ※奥宮例祭(龍頭鷁首の御船神事) ※日本アルプス遭難者慰霊祭 |
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11月 | 15日 | ※七五三祝祭 |
19日 | 国幣小社例格記念祭 新嘗祭(農・工・商、産業発展感謝) |
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12月 | 31日 | ※大祓式、除夜祭 (無事息災を感謝して新年を迎える) |
毎月 | 1日 | ※おついたち参り 月旦祭 |
27日 | 月次祭 | |
式年遷宮祭 | 20年毎に本殿一社を建替える大遷宮祭。その間2回の破損個所を直す小遷宮祭が行なわれる。5月寅日寅刻に行う。 |
詳しい 歳時記 はこちら ▶
明神池の畔に鎮まる穗髙神社奥宮。御祭神は穂高見命で、日本アルプスの総鎮守、海陸交通守護の神です、嶺宮は北アルプスの主峰、奥穂高岳の頂上に祀られています。
残雪を抱く北アルプスは明神岳の麓、静寂が一層の神秘さを増す穗髙神社奥宮。明神池は穂高の山に天降った神様より恵み給うた清水をたたえ、その水は安曇野を潤す梓川に注がれます。
奥宮・嶺宮 詳細はこちら ▶
穗髙神社例祭で曳き出されるお船や長野県無形民俗文化財に指定されている伝統人形飾物を公開中です。氏子が作り上げた表情豊かで迫力のある歴史絵巻をぜひご覧下さい。
幾千年伝えてゆきたい安曇野の宝である、神宝・古代鋤・古面・勾玉・菅玉・直刀・古文書など、信濃の貴重な展示物も数多く展示してあります。
御船会館詳細はこちら ▶
安曇野には多くの道祖神があります。約400体以上の道祖神があるとされ、単体の市町村では日本一と言われています。 道祖神は、村境で悪霊や悪い病が村へ入るのを防ぎ、旅人の安全を守り、五穀豊穣、家内安全、子孫繁栄などの守り神で、江戸時代中期(1700年代)のものまで確認がされています。
境内にはステンレスで作られた日本唯一の道祖神が祀られています。
これは長野県が平成25年に長寿日本一として認められたことを記念して、ステンレス彫刻家として著名な当地在住の中嶋大道先生により制作されたもので、ステンレスの変わらぬ輝きのように健康長寿でありますようにとの願いが込められております。
翁と媼が笑顔で寄り添う像の握手部分には健康長寿に加え、夫婦円満・縁結びの御利益を授かる「手撫で詣り」が行われています。
穗髙神社参拝の折には、併せてお参り下さい。
樹齢:500年以上
樹木の種類:杉
境内の神楽殿の横に、ひときわ目を引く大木があります。「孝養杉」と呼ばれる杉の大木で、樹齢は少なくとも500年以上であると推察されます。名前の由来としては、大正10年頃にまだ10代であった穂高柏原在住の高木董江(すみえ)さんが母親の病気平癒祈願のため丑三つ時に白装束でお参りをされ、それ以降母親の病気が良くなったといったことが、いつしか氏子の人たちから噂になり「孝養杉」と呼ばれるようになりました。当社資料館である御船会館に収蔵されている昭和初期に書かれた御船祭りの絵の中にも大きな杉の絵が描かれています。
境内神楽殿の北側、末社の祠が立ち並ぶ若宮の西側に大きな欅の木があります。この欅の樹齢は500年を悠に越えていると推測されるほどの老木で、昭和45年5月に文壇・画壇の巨匠川端康成、井上靖、東山魁夷がそれぞれ夫婦お揃いで参拝された際その若葉繁るこの木を仰ぎ見て絶賛しました。また、昭和46年7月に井上靖が「けやきの木」という題で小説を著し、他七編を加えて出版しています。この小説の中で穗髙神社の欅の木として登場し、作中では、主人公が欅の木にこだわった随筆を新聞に載せた事から、けやきという木に身も心も捧げているという老人が以前夢の中で穗髙神社の欅の精から若葉が繁ったその姿を見に来る様にと招待を受けた事がきっかけで一緒に東京から穂高の地へ行きその欅を見せてもらう事になる。実際に行ってみると緑の若葉が大きな傘のように広がった誠に見事な欅であった・・・。という非常に神秘的な表現でこの欅の木を表現しています。
社務所中庭には白松という珍しい木が生えています。当社では宮中へ年に三回山葵を献上しています。昭和37年4月の天長(陛下の誕生日)の祝賀に当たり、当社より恒例の山葵を献上した際この松の枝を下敷きとして添えたところ、それが陛下の御目にとまりました。そして陛下より「これは白松である」との御教示を賜ったこの上ないおめでたい松です。この松は葉と幹に特徴があり、葉は三葉、幹は茶褐色と緑色の斑点をしています。この松の由来は、清朝の皇族である粛(しゅく)親王に永く仕え、また満州国の溥儀皇帝に内務官として近侍した穂高出身の小平総治氏が、昭和6年に中国紫禁城より白松の種子を持ち帰り、その種子を郷里の知人たちに配り大切に育てる様に伝えたところ、望月喜代美氏のものが唯一発芽成長しました。昭和15年、皇紀2,600年の記念奉祝と、当社が国幣小社に列格した奉祝を兼ね望月氏が当社に献木したことによります。また、昭和37年の陛下より御教示を賜った事を記念して荘厳なる琵琶歌も奉奏されました。この歌は当時宮内庁掌典職であった矢尾板敦氏が作詞をし、薩摩琵琶の宗家吉水錦翁氏により作曲・演奏されたました。
樹齢:500年以上
平成20年10月29日安曇野市指定文化財
樹木の種類:欅
高さ:8m 目通りの周囲:6m
穗髙神社の表参道は大門通りと言われ、穗髙神社創建以来参道があります。(旧穂高町の台帳の記載に町道一級二号線とある)参道の南側は欅の並木であり、当時を想い偲ぶ役場入口の欅の樹齢は500年以上ともいわれています。古くは江戸時代の東大祝文書(ひがしおおほうりもんじょ)の一節に「欅が生えている土手の所で参拝者が、欅の木陰を利用して涼んだ」と記載されており、江戸時代には既に生えていたことが分かります。